2023年9月1日。
1923年に発生した関東大震災から100年。

関東大震災が残したものをたどり、現在への学び、メッセージを探るべく、ディフェンス・アクションアンバサダーを務める石川直宏さんと、関東大震災100年企画として以下を実施しました。 

 ・横浜市内巡回ツアー
 ・対談

「関東大震災100年企画」2部構成のうち、本記事は前編「横浜市内巡回ツアー」について。

social football COLO メンバーも何度も訪れたことのあるまちでしたが、今回初めて知ったことや気づきがあふれたまち歩きとなりました。ぜひご覧ください。

なぜ、横浜市で巡回ツアーだったのか?

関東大震災と聞くと、東京の街が火事により焼失したという話を思い出す方も多いかも知れません。しかし、実は関東大震災は、そもそも相模湾を震源とする地震であり、鎌倉をはじめとする湘南エリアでは津波が押し寄せ、横浜市の被害も甚大でした。

そして、ディフェンス・アクションアンバサダーを務める石川直宏さんとの関わりが深い(※)まちであったこともあり、横浜市内の関東大震災の歴史を振り返る街歩きツアーを、石川さんとsocial football COLOで実施しました。

※石川直宏さんのご出身は横須賀市。プロ入り後は3年間、横浜F・マリノスに在籍されていました。

横浜市内の関東大震災の歴史を振り返る

===巡ったスポット概要===============

◆ブラフ80メモリアルテラス
 関東大震災で倒壊した山手の外国人住宅の遺構。元町公園内。

◆港の見える丘公園
 震災時、山手の外国人たちが、この崖の上から下の埋立地(現在の新山下)へ避難して生き延びた。

◆横浜地方裁判所前の慰霊碑
 所長以下94名の犠牲者の名前が刻まれた慰霊碑で、昭和10年9月に建立。
 裁判所の建物も震災復興建築。昭和5年竣工。

◆旧三井物産横浜支店・旧露亜銀行横浜支店
 震災でも倒壊しなかった建物。当時最先端の鉄筋コンクリート構造を採用。
 明治44年竣工(旧三井物産)、大正11年竣工(旧露亜銀行)。

◆開通合名会社煉瓦壁
 明治時代に建てられた開通合名会社の煉瓦壁の一部。
 震災後に別の建物の一部として取り込まれていた。平成26年(2014)に発見。

◆山下公園
 関東大震災の瓦礫を埋め立ててつくられた臨海公園。昭和5年開園。

◆インド水塔
 震災時の支援に対して、横浜インド商組合が感謝の意として横浜市に寄贈した水塔。昭和15年竣工。

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朝9時半。
元町・中華街駅に集合し、横浜開港資料館・横浜都市発展記念館の副館長 青木さんのご案内のもと、出発です。

青木さんは博物館学芸員として、当時の方が残した手記や記録から当時の様子を振り返り、現在に伝えていくご活動をしていらっしゃいます。青木さんのご活動や思いについては、対談の際にお話いただきましたので、後編をご覧ください。

元町公園内に入り、まず訪れたのは「ブラフ80メモリアルテラス」。関東大震災で倒壊した山手の外国人住宅の遺構です。

本遺構は煉瓦づくりの家で、鉄棒によって補強され、耐震上の配慮がなされていましたが、床部のせりあがりや壁体の亀裂が随所にみられ、関東大震災による被害状況を物語っていました。

関東大震災では11時58分の本震の後、12時01分、12時03分と、マグニチュード7クラスの余震が2回発生しています。本震では無事だった建物も余震により倒壊し、被害を受けた方もいらっしゃった記録があるとのこと。

これを聞いて2016年の熊本地震を思い出しました。

熊本地震では前震、そして2日後に本震があり被害を受けた方が多く出ましたが、関東大震災でも通ずるところがあったのですね。大きな揺れの後は、「もうこれほどの大きな揺れはこないだろう」と思うことなく、注意を払う必要があることを改めて実感しました。

続いて訪れたのは「港の見える丘公園」
震災時、山手の外国人たちが、この崖の上から下の埋立地(現在の新山下)へ避難して生き延びたとのこと。

公園から下まで30メートルくらいの高さでしたが、ここを降りて逃げなければいけない状況とは?降りるのが難しいお年寄りや子どもは?など、想像すると恐ろしくなることがたくさん思い浮かびました。

続いて、山手エリアを抜け、日本大通り駅周辺へ。

「開通合名会社煉瓦壁」を訪れました。

明治時代に建てられた開通合名会社の煉瓦壁の一部で、震災後に別の建物の一部として取り込まれていたのを平成26年(2014)に発見したそうです。

駐車場の一部のように佇んでおり、こんなにも自然に震災の遺跡がまちに溶け込んでいることに衝撃を受けました。

続いて、「横浜地方裁判所前の慰霊碑」 「旧三井物産横浜支店・旧露亜銀行横浜支店」を訪れました。

「横浜地方裁判所前の慰霊碑」は所長以下94名の犠牲者の名前が刻まれた慰霊碑。 亡くなった方の具体的な職業がわかるだけでも、より震災が身近に感じられ、また震災前の人々の生活やまちの様子に思いを馳せた瞬間でした。

「旧三井物産横浜支店・旧露亜銀行横浜支店」は、当時最先端の鉄筋コンクリート構造を採用していたことなどから、震災でも倒壊しなかった建物。

当時の写真を見ると周りにはほぼ何もないのがわかります。

この写真も震災後時間が経ってから撮ったものだったため大通りがわかりますが、震災直後は道もわからない状態だったはずとのこと。

最後に訪れたのは「山下公園」「インド水塔」

人々の憩いの場である山下公園は、関東大震災のガレキを埋め立ててつくられた臨海公園。

公園から海底を覗くとちらほらと赤いものが波に揺られて見えますが、これが煉瓦のガレキとのこと。何度も遊びに来たことのある場所だっただけに、その場所にいまだに関東大震災の痕跡が残されていたことに衝撃を受けました。

100年前の震災の記憶が今もなお日常に溶け込み、現在にメッセージを残していることを、身をもって感じることができた、貴重な時間でした。

ご案内いただいた青木さん、誠にありがとうございました。

この後に行った対談は、ぜひ後編をご覧ください。